自由教育(都市教養)への期待と挫折、忘れ去られた社会学者(工事中)
藤田喜作=ふじたきさく 社会学者 (政治社会学)
新潟県人 大正4年東京大学文学部社会科 同7年法学部経済科卒業
戦前は帝国大学女子大学、法政大学などで講師として歩き渡る。信州の自由大学運動において伊那自由大学へ講師として参加。
昭和5年代々幡(現、渋谷区)町議を辞して衆議院に社会民衆党から立候補するも落選。
昭和10年頃より自由が丘学園の再建に尽力し中興の祖として学園史に名を刻まれている。 →自由ヶ丘学園高等学校
キーワード 自由教育 都市社会学 自由大学運動 社会民衆党 代々幡町政 市町村合併 都市論など
集めた資料
中野光 「自由ヶ丘学園の教育(氈j」 立教大学教育学科研究年報 第29号 1986年
→改革者の足跡を手がかりに
学校のあり方を考える
戦前の都市研究 山岸健 慶応義塾大学教授 特集論文 社会学評論 1977 110 66 日本社会学会
「家族と郊外の社会学」三浦展
など
藤田氏の初陣 上田城下に戦線展開 (「法政大学新聞」昭和5年2月14日付け)
■ 本学社会学科講師藤田喜作氏の地盤は上田小諸を中心とする長野県第二区で目下友人、教え子を総動員し舌●に帯も解かぬ
程忙殺されている同氏は昨年5月代々幡町議に目でたく初当選し以来副議長を勤め大枚6千円也の年棒を頂戴している。
■立候補を知った記者は去る31日早朝同氏の玄関に立つと早や応援演説に行くらしい女大生と真赤に充血させた眼をしょぼつかせて
対談していた。 「僕は舌戦だけはどんな舌強者だって負けないよ。都下大抵の大学に出ているんだからね・・・。小川平吉氏がどんなにがんばっても
女大生を演説に送ることができるかっていうんだよ」と高笑される。
■ 「僕の立候補は丁度賀川豊彦※のようなものさ。当のご本人が決心する前にもうちゃんと膳立が出きているんだからね。」
社民党を背景にした同氏の長野二区における聲望が窺える。「この熱心な声援に対しても全力尽くして
戦う心境だ。それで演説も僕だけでも明一日から60回やる」堅い信念を抱かれ同日夜行で長野に向け出発した。
川邉時報(長野県小県郡川辺村) 昭和5年3月10日 第17回総選挙結果
無産派無惨の討死 与党大勝す。 三旬に亘る政戦
第17回総選挙結果
7000万国民の血を沸かした第二次普通選挙は墜に終わった。
本県 21候補に対する厳粛なる民衆の裁きは遂に民政派の政友派を壓した絶対多数によって与党の勝利となって現るるに至った。
三旬の奮闘にめぐまれ栄光にかがやく13候補の換気はさることながら悲運に置かれた8候補の心胸にも一掬の同情をそそがざるを得ない。
殊に注目さるるは思想的先進県民として自他共に許さるる本県から無産党2候補が第一次普通
選挙にもして無惨な最後を遂ぐるに至ったことである。
その敗因その不振は何処にありや一層の問題として残ることであろう。
人目を引く落選者
安部磯雄 ※目録(東京府第二区)我が右翼無産社会民衆党首にして民衆の母として一般
から尊敬された社民党のみならず7000万国民の等しく失望落胆せしめた
次第である。
河上肇 (京都府第一区)法学博士で京都帝国大学教授、常に無産階級の尖端を辿るひと。
鶴見祐輔(岡山第一区)この間まで電気館に上映されていた『母』の創作者、後藤新平の女婿とし且新興青年階級にもてはやされた氏も既に選挙区ではあきられ、
演説中に『鶴見、そこらで一泣き泣け』などと野次られてたとはお気の毒の次第。
賀川豊彦(東京府四区)
安部磯雄文庫目録
河上肇=戦争と革命の時代である二十世紀の前半を生きた思想家、経済学者
川邉時報 昭和5年2月10日
衆議院立候補紹介
山辺常重 民政党 会社員 小県郡神川村 東京市本郷区駒込林町112番地 明治9年8月1日
篠原和市 政友会 無職 北佐久郡岸野町 東京市麹町区8丁目28番地 明治14年3月29日
小山邦太郎 民政党 生糸製造 北佐久郡小諸町 小諸町甲2906番 明治22年11月16日
鷲澤与四郎 民政党 新聞記者 上田市 東京府豊多摩郡渋谷町豊丘49番地 明治16年8月14日
藤田喜作 社民党 帝国大学女子大学講師 広島県 東京府豊多摩郡代々幡町字代々幡730 明治20年3月13日
参考資料
タイトル:再要求経過報告糾弾大演説会(大原社会問題研究所所蔵) 弁士 片山哲,藤田喜作,松永義雄,近藤永次,陶山徳太郎,野溝勝 主催 電燈電力消費組合 後援 社会民衆党長野支部 /人名・団体名:片山哲/藤田喜作/松永義雄/近藤永次/陶山徳太郎/野溝勝/電燈電力消費組合/社会民衆党長野支部/時代:19--.08.19/資料の大きさ:39x54cm/番号:PA1119
ロンドン労働大学の事ども 「法政大学新聞」昭和5年6月13日付け
■ベルリンで生まれた長男の第二回の誕生を1925年の正月の末に済ますと我等親子3人はドイツい渡って
途中一寸筆紙に●し難い程難●な目に遭いながらロンドンにたどり着いた。
■日本人仲間とは出来るだけ交際を避ける積もりで郊外に居を決めて直ぐアールス・コートの労働大学を訪ねていった。
(略)僕は別に誰という知り合いもなく又紹介もなしに漠然と訪ねていったのだがクレーク校長を始め皆大いに歓迎してくれた。
それは僕が普通の学校の教師こそして居れ彼等同様生粋の労働者出身なので労働者と労働者の間に国境も人種も問題にしないで
親しみ寄る同志的情熱が燃らしめたものである。(略)
■授業は午前だけで科目はプロレタリア社会学と同じく、経済学、それに労働組合史の3つが正課で、(略)講義は決して
やりっ放しではなくて例えば月曜に2時間社会学の講義をして筆記させ火曜日にはそれを学生に当てて繰り返させ正しく
理解してるかどうかを試みる。次の日にはそれを学生に批判させ、そしてそれを教師が批判是正する・・といった行き方で
進まないようにみえるが然し徹底的だ。(略) 僕は頼まれて東洋の労働事情、労使関係の現勢を数回に亘って講義をした。
高山昭「哲学科回顧 社会学科の母、藤田先生 」「法政大学新聞」昭和7年4月13日付け
■社会学科が始めて法政に置かれて以来熱心な社会学研究と同時にもっとも親しみ深い結合が師弟の間に溢れていた。
(略)
■ もし松本教授を社会学科の父とすれば藤田講師は母であり蔵内講師は良き兄である。
母が世帯をもつ前の子供たちに台所管理の虎の巻まで教えるように藤田講師の浮世の有為博愛の苦楽を舐めた人だけあって
いはゆる実際の社会学(それもよい意味での)すなわち実践社会学を教える。
■ 「君達はいらん事をしょっちゅう詰め込まれているからせめて僕の時間だけは実際の街頭の社会学を聴くとよい」という挨拶
から始められ、得意の政治社会学に又は社会問題批判の抜群の怪腕を振るって縦横無尽に捲くり立てる所は、稀世の科学の英雄である。
一寸奇異なしかも凡庸な労働者の全く複雑な藤田先生の性格及び特徴は別として、きどったり●っつたりは微塵もせぬ
藤田先生の真剣な教理には、学生をして初めて学問に対する真の味覚をよみがえらさせ学問とは煩瑣と曖昧であるがごとく一般
を おもはしめる今日、極めて明瞭な学問の意義を学生に持たさせる
※松本教授=松本潤一郎 松本潤一郎著作目録 ※蔵内講師=蔵内数太
佐古輝人と社会学する に詳しい
郊外社会学 昭和7年12月 (「法政大学新聞」
近代人の生活圏界を地域的に書すると、農村社会と、都市社会の外に、
両者の接合地帯で純然たる農村でもなければ、純然たる都市でもないところの 文化的にいえば近郊社会、郊外社会、京童の冷笑語でいえば
町外れ社会、場末社会ともいうべき範囲がかなりの領域を占めている。
そしてこの圏内に生起する諸種の事象は前二者社会に比してかなり得意な社会層を呈しており、然もこの特異層が実は現代社会の
資本主義文明末期の特質をよく現している。(略)(略)・・・・・・・
そしてその社会特質が病毒でもかたまる様に●って表面にあらわれているのが、れら郊外町村社会のもつ公的機関すなわち
役場および町村会の政治的集団である。これはこの町村内のモノをいふ者、モノの解る者ども、いはゆる有志有識者によって構成されている。
したがって、この公的●●の行動はその社会の特質をかなり的確 に表現する。
東京市の公的機関である市当事者や市会議員の行動を似って東京市社会の特質を●したら代表●関係から抗議が出る向きがあろう。
が、小さい町村の公的●●が大抵100人以上もその町村の有する有志達をもって構成されている場合、その社会の特質がここに表現されていないとは
言わせない。・・・・・(略・・・・・・
そのほか
「藤田喜作」と検索してみつかったもの。
自由ヶ丘学園高等学校応援掲示板 東京都目黒区の男子校!自由ヶ丘学園高校を応援する掲示板です。
無題) 投稿者:浦島 投稿日:05/04(火) 18:45 PC No.7 [返信]
私は、昭和51年3月卒業の者です。現在46歳です。卒業してから一度も学園へは行ったことはありません。校風なども変わったかもしれませんね。当時はかなり校則なども厳しかったと思います。ビンタなどの体罰も当たり前でありましたし。今は、グレーの詰襟服のようですが、当時は、黒の詰襟学生服でしたし、帽子ぼありました。今は、時代の流れで、様子も変わったでしょうが、いかがでしょうか?当時は大橋先生とか林田先生、厳しい永滝先生などから教わりました。校長は確か、藤田喜作先生が一年の時亡くなり高須賀先生だったでしょうか・・